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私の母親は若い頃から文学を志していた。仲間と『文学季節』という同人誌を発行し、丸山豊氏、松永伍一氏、新昌良氏等色んな文学者と交流を深めていた。
中でも松浦沢治氏主宰の『玄海派』の創刊号に、母は「おとずれ」という作品を寄稿している。本人は評価が高いと言っていたが(以前読んだけど私には難解過ぎて理解できなかったような…)、一緒に寄稿した河村さんという方が直木賞候補になったそうだ。また『玄海派』はその後、山下惣一さんも加わっている。 そんな実績が、母親のインテリぶりを加速させていく。本を読まない人はダメな人、知識がないとくだらない人間になる、文章を書けないと恥ずかしい。子供心では信じていたけど、今思えば大変な偏見だ。 それだけに、国語や漢字の学習には、異常なほど干渉してきた笑。「毎日日記を書く」「毎週末、今まで習った漢字の書取りをする(6年生頃は大変だった)」「読む本・買う本は母親のチェックが入り、却下されることも」 今でも記憶しているが、誕生日にお小遣いもらって、本屋で『ウルトラ怪獣大百科』を買ってきたら、説教されて泣きながら返却しに行ったこともあった。 その記憶の刷り込みが、私の子供たちへの読書強制とつながっていることは百も承知の上だ。 読み書きさせられたことで、知識が増え、世界が広がったのは事実である一方、友達の流行り話についていけなくて、随分つらい思いをしたのも事実。 未だに母親と素直に向き合えない関係性の理由の一つはそこにあるが、色んな言葉や漢字を学ぶこと、文章を書くことが楽しめるところは大変感謝している。これからますますデジタル化が進み、アナログが失われていく中で、この良さは我が息子たちにも伝えていきたいと思っている。
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by ut9atbun61
| 2025-12-31 20:20
「人生はあっという間よ」
昨夜観た、映画『パリタクシー』の老婆が手紙で語る。 その言葉が軟骨のようにコリコリと歯応えがあり、その後に味わいがじわっとやって来た。 私は普段、SNSでは家族の事を俎上に載せないようにしている。 私にとって人様に晒すほどの大した話題でないと思っているから。家族そのものの存在意義が私に分からない時もあるし。 「寅さん」を通した家族は好きだけど、家族の絆になると逃げだしたくなる。家族は脆い、あるのは“家族のような”ものだ。 今回もどうしようかと迷ったが、ただ今回だけは、記録としてここに残そうと思った。私自身のため、子どもたちへ伝えるためにも。 私の母は94歳、心臓を患って今は施設で介護を受けている。 先日、施設から連絡が。体の機能が徐々に衰えてきたようで、「そろそろ看取りに入ります」と。 遂にやってきたか、私は哀しみというより、とうとう終わりがやってきたか、という気持ちになった。 何といえばいいか、澄み切った寒空を見上げ、何となく不安な心持とでも言おうか、スッキリした感覚と無常(というより無情か)な虚しさが同居している。平静淡々と受け入れようとする自分と、記憶のジグゾーピースが崩れかかって焦る自分。でも時間はしれっと迎えにやって来る。それまでに眠っている記憶の光を掘り起こしておこう。 1.戦争の記憶 昭和7年生まれの母は、5,6歳で母の父(私の祖父)の仕事の関係(確か軍属)で台湾へ渡ったという。 母の母(私の祖母)はそこで軍人相手の商売をして小銭を稼ぎ、台湾時代はそれなりに暮らしていたそうだ。 そのため台湾料理も母のソウルフードの一つで、生涯中華料理を好んだ。 一方で台湾空襲では、近所のおっちゃんが目の前で吹き飛ばされたり、かなり衝撃的な現場を目撃したという。 また爆撃機のパイロットが地上近くまで接近してきて、ガムを噛んで笑ってたという絵が一生脳裏に焼き付いているという。 終戦間際には、軍人たちと一緒に引き揚げ船に乗って日本を目指したが、同時期に出向した船は途中で沈没したそうだ。 内地に引き揚げてから父が亡くなり、母が商売を始めては失敗し、生活が困窮し、さんざんいじめにも遭った。貧しさの中で一番印象に残ってるご飯は、かぼちゃの煮物をご飯に和えて“卵かけご飯”と言って食べたことだと言っていた。 この戦時中の生死の紙一重は終生、反戦という思想を母の中に作り出した。反米左翼の立場で若い頃は、べ兵連や学生市民運動に身を投じて、あちこち飛び回っていたが、諸々の事情で私が生まれ、活動から身を引いたという。 それからは、私への反戦・思想教育が徹底された。小学生の頃から、ニュースやN特などのドキュメンタリー、朝生など見させられ、滔々と左翼思想を叩きこまれた。その一方で、野村秋介や西部邁を高く評価していた(昔の知識人というのは一定の矜持があったから)。おかげさまで私は“赤化優良児”となり、今もその片鱗は残っている笑。 時代に翻弄され苦労しながらも、自分の思いのまま生きてきたので、本人はとても満足していると思う。 つづく #
by ut9atbun61
| 2025-12-26 00:10
10.14 は鉄道の日。不覚にも私はすっかり忘れてて、今朝になって気付いた。
さてさてどうしたものやら。昼から天気も崩れるという。それじゃ、時間と予算を考慮して、山陰本線長門市往復の旅としよう。 午前中に何とか農作業を終わらせて、昼過ぎにはもう江崎駅のホームベンチに体をうずめた。 伽藍とした無人駅のホーム、時間と空間の独占できる感覚が何とも堪らない! 絶景海側席が埋まっていたので、仕方なく山側席に腰を下ろす。山の緑が心なしかくすんで見える。そろそろ紅葉が始まるのであろう。山のふもとに点在する人家は空き家が目立つ。くすんだ緑に飲み込まれかけた家々は、絵的には美しいが、現実は哀しいことだ。時折、山が迫ってきて、蔓と雑木が列車を叩く、途中から雨も加勢して窓を叩く、意外とうるさい。 車窓にやや見飽き、読書(もちろん鉄道文学)とうたた寝をするうちに、15時18分長門市駅到着。 ここは、山陰本線支線(仙崎線)、美祢線の分岐駅。引込線が何本もあり、かつては賑わってただろう、鉄道の中核都市である。キハ40が数編成留置されており、全国の鉄道マニア垂涎の地であるに違いない。 ![]() 次の益田行は16時過ぎ、観光地の仙崎まで足を延ばす事も考えたが、折角なら長門市駅周辺をぶらついてみたい。雨も上がったことだし。大概、旅先では地元スーパーに寄ることにしている。地元の海産物・野菜・惣菜などを見るのが楽しい。何なら買って食べるものまたいい。 …とはいうものの、何もない…。駅前にドラッグストアチェーンが構えているだけ。30分歩き回ったが、準備中の居酒屋、定休日の中華食堂、それに大きな冷凍焼鳥の自販機(長門市は焼鳥が有名らしい)にコンビニぐらいか。 うーん、と唸りながら歩いている途中、突然「こんにちは!」と声を掛けられた。 慌てて顔を上げるとちっこい小学生が不安げな表情でこっちを見つめている。 「ああ、ごめんね。お帰り!」とすぐに返したが、ここは田舎だ、子供たちは皆挨拶をするのだ。 以前、東京で小学生に挨拶をしたら、走って逃げられたっけ笑。もはや文化の違いとでも言おうか。やっぱり挨拶は気持ちいいな。 駅に戻る道すがら、なかなか素敵な景色に出会った。何気ない日常の町の景色に遠くの山に真綿のような雲がかかっている。このもやっとした寂れた駅前光景が私は好きだ。(写真では伝わりにくいが) 16時17分益田行に乗り込む。これも1両編成ながら3割程度は乗っている。意外だったのが学生より一般客が多い。下校時はもっと混むのかな?帰路は海側に席を陣取り、早速車窓に噛り付く。 どんより重たい雲に白い海、程よい荒れ加減がまたいい。その海岸沿いを縫うようにディーゼルカーは走る。 17時もまわり萩を過ぎ、海原の水平線の一部が微かに赤紫に彩られてきた。天気の時はさぞかし夕焼けがきれいなんだろうと想像できる。下関~京都を走る山陰本線の中でも長門・浜田間は(鎧・餘部間と並んで)絶景区間だ。 17時45分、江崎駅到着。薄暗くなった空に駅舎の街灯が映える、テールランプもまた映える。そして、けたたましいディーゼルの音と匂いを残しつつ、赤い列車は小さくなっていった。 まだ家に帰りたくないなあ、ひなびた駅前旅館なんかに泊まりたくなってきた笑。 田万川温泉でもと思ったが、残念ながら定休日。仕方なく帰路についた。 長門市と厚狭を結ぶ貴重な陰陽連絡線でもある美祢線は来年から、BRT(バス)転換になる。中国山地の地域の足である芸備線や木次線は、存廃の協議が始まっている。全国に目を向ければ、ここ数年で数か所の路線が廃線になっている(来年には弘南鉄道に富山地鉄も…)。この野郎JRめ!と私は腹立ててしまうが、結局は車社会と人口減少、地方の過疎化によるもので、この大きな流れは止めようがない。しかし地方に住む者としては、何かしらあがくことぐらいはできるのではないか、とも思う。 家族や子供たちで遊びに行く、主婦が集って買物に出る、老人会の小旅行、仕事上の出張など。たまには地元の鉄道を利用しようか、そういう気持ちになってほしい。これが意識的にならないと、結局鉄道は無くなってしまうのだ。それでも若い時はいい、自分たちが年老いた時(交通弱者になった時)に気付いても遅い。先人たちが苦労して築いてきた鉄道を、生活の欠かせない一部として再評価していこうではないか、そう私は声高に言いたい。 山口線だって、いつまでも観光SLに頼っててもいけません。 もっともっと、鉄道を利用しましょう! そのように感じ、鉄分をしっかり充電できた今日一日でした。 長々と失礼しました。
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by ut9atbun61
| 2025-10-14 22:57
| 鉄道
只見線の次は栃木の山の中、足尾銅山への道、『わたらせ渓谷鉄道』。
かつては国鉄足尾線として、足尾銅山からの鉱物輸送が主力だった。銅山の衰退とともに町も寂れ、足尾線も第3セクターとなり、現在ローカル鉄道として踏ん張っている。その応援と銅山観光の様子を知りたくて、今回訪れることにした。 我が町木部地区も、かつては笹ヶ谷銅山が栄え、衰退した経緯があるので、何かしら参考になるかもという考えもあった。 朝8時54分桐生発、ディーゼルカー1両。通学時間帯とずれているからか、4‐5人の乗客を乗せる。しかしその方々も一人二人と降り、途中から私1人ぼっち。貸切は嬉しいが、静寂はちと寂しい。 “渓谷”の名の通り、山と谷をとっかえひっかえしながらエンジンを軋ませる。渡良瀬川沿いに進む。ゴロゴロと巨石が散在。雰囲気は良い。 通洞駅で下車。次の列車まで時間があるので、足尾銅山観光をして町をブラブラ。隣りの足尾駅まで足をのばす。 駅舎とプラットホームは有形文化財に指定されるだけあって、素敵な佇まい。 ![]() そこには国鉄時代の気動車やタンク車・緩急車が留置されている。キハ35気動車はロングシートで乗車魅力が薄かったものの、今見るといかめしい顔つきと外吊り扉が堪らない。錆具合を見ると何年この姿を拝めるか不安になる。 ![]() 知る人ぞ知る、鉄道紀行作家の宮脇俊三さんが国鉄全線2万キロを完乗した駅である。降りたのは私とマニア青年の2名。 もう利用客が少な過ぎる! ここで40分休憩。駅周辺をうろつく。かつての炭住を見つけ、廃墟マニアとしては大興奮! 12時22分折り返し桐生行。当然乗客は2名。 春からの農作業の疲れを十二分に洗い流して帰途についた。 (足尾銅山と間藤については、フェイスブックで少し言及しました) #
by ut9atbun61
| 2025-07-12 22:26
| 鉄道
喜多方市での視察が終わってから、会津若松から只見線に乗る。しがないローカル線だから、まあ十分に座れるでしょうとたかをくくってたが、1時間前から並ぶ人たち。駅員さんに只見線の混雑状況を聞くと、「最近はおかげさまで、全国から乗りに来られるので結構込み合いますよ」だって。私も慌てて並ぶ。
確かに、豪雨災害によって10年間ほど一部不通(代行バス)になり、地元や全国の鉄道ファンが支え続けてようやく2年程前に全通した経緯がある。地方ローカル線の希望の星だ。とはいえ、風光明媚な路線というハンデもある。(日本一の路線とも称されるが、私は日本一のローカル線は五能線だと思う) 並んだ甲斐もあり、無事座ることができた(ほぼ満員!)。 やってきたのは2両編成のキハ110,120系、国鉄色がまた憎いね! 向かいに座ったのは、年配の女性。話しかけると、仙台からわざわざ乗りに来たらしく、時間ができると子供のところへ行くついでに乗り鉄旅を楽しんでいるとか。昭和の鉄道の旅情話から、最近の若いもんはデジタルばかりでダメだね、なんて話で盛り上がった。やっぱり私は同世代以下とは話が合わないな笑。 今日中に仙台に戻るため、会津川口で引き返すという彼女とお別れをして、30分近く停車中にぶらぶら。 山紫水明とはまさにこのこと。視界を緑に覆われては、灼熱を感じさせない。 会津の渓谷を縫うように抜けると、一面の水に映える田んぼの平野が広がり始める、遠くには連山。いよいよ越後の国だ。 本日は上越線塩沢駅止まり。嫁さんの実家に10数年ぶりにお邪魔する、宿代わりに。 #
by ut9atbun61
| 2025-07-08 22:36
| 鉄道
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