老いてはイヌままに

東の方から夕闇が迫ってきたのだろう、毛で受け止める風に冷たさを感じる。
足元を流れる水が夜を誘い出す。しかし全てが暗闇では、皆目見当がつかぬ。
わしは、再び遠吠えをかました。が、間もなく激しく咳き込んで止めた。
冷たいコンクリートの壁がこだまして笑い出した。
「自慢の鼻もこのざまじゃあ、もう齢だな。」
犬の13歳を人間に例えるとなんていうバカバカしい会話が妙に懐かしい。

数日前から、わしは光を失った。そして今朝、いつもの散歩道、足を踏み外
して何処かへ落ち込んだ。ひっきりなしに水が流れているところをみると、
さしずめ田んぼの水路であろう。
助けを求めようと、朝から声を張り上げてきたせいか、喉がじりじり痛む。
最近余り吠える事をしなかったしな、と振り返るもそれは慰めにもならぬ。
「このまま死んでしまうんかな?誰にも気付かれずに…。」
ため息をつく。寂しさの果てにしっかと刻まれた足の傷をひとしきり舐め
ていると、
「おーい、ピス!ピス!何処だ!」
遠くで聞きなれた声がする。方角は、…よく分からないが。
「ピスー!ピスー!どこなの!」
小さき声も交じりつつ、徐々に近づいてくる声。
わしは、ブルっと水気をひと飛ばしして、尻尾を立てた。そして再び力を振
り絞り吠えた。吠えた。吠えまくった。
ところが、温かな声達は車の音と共にゆっくり遠ざかっていく。
「ここじゃ、ここじゃ!」と言ってるつもりだが、聞こえないのか?
しばらくして再び声が近づく。今度は長靴を引きずるような音3つ。歩きだ。
「さっきこの近くで声がしたんだがな。」「いや、あっちのほうだったよ。」
しかしまたもや、遠ざかっていく。これが2,3回繰り返された。
「こりゃダメだ、ダメだ。もうどうしようもない…。」
最後の探す声は、諦めの声だった。
どうやらわしの遠吠えは、水路のコンクリートが反響しあって、あちこちの方
角に飛び散り、色んな方角から聞こえてくるらしい。つまり探しようがないと
結論付けたようだった。
何かがすうーっと抜けていった。それは犬が魂と言ったらお笑いなので、気持
ちとでも言っておこうか。
わしはそこいらを歩き回った。そして身体の半分ほどの平べったい石を見つけ、
そこに疲れた身体を横たえる。
水に奪われた石の体温にゾクッとしながらも、しばらくの間休む事にした…。

…それからどのぐらい経ったであろうか、突如、まばゆい一筋の光が眼を差す。
「ピス?だよね、そんなところにいたんか!」
大きな手がわしの体をぐっと掴み抱き上げてくれた。
この声、この臭いは、研修生のKだ!
驚きや喜びもそのまま、軽トラックに乗せられた。そして、
「ピス!ピス‼ お父さん、ピスが帰ってきたよ!」
「びしょ濡れじゃないか、何処に行ってたんだよ!」
手荒い歓迎でもみくちゃにされながら、ひとまず安堵した。
わしは、も少し生きていられそうじゃな、と。

「これじゃ、もう放し飼いは無理だね。」「いや、これでもう懲りただろう。
白内障で見えないんだからもう怖くて出歩けないな。」
わしは“くんくーん”と、練習を重ねた猫なで声を出してすり寄った。
とりあえず、尻尾を千切れるように高速で振りながら。
しかし、だ。わしは決して徘徊を止めようとは思わん。
今回はちょっとヘマしただけに過ぎぬ。

ある日の夜更け。首輪と鎖をしっかりと繋いだ金具を、地面に擦りつけて外し、
わしはゆっくりと暗闇に向かって歩いて行った。
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by ut9atbun61 | 2017-02-19 22:48 | 田舎 | Comments(0)
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