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ふるさと

 昨日、グラントアでバンド練習をしていたら、偶々隣りのスタジオで友人が管弦
楽団の練習をしていた。聞くとメンバーに私と同郷の久留米人がいるという。紹
介されたのは同世代の女性。中学校も近いこともあって、奇縁と懐かしさと地元
ネタで盛り上がった。

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの 」 まさに言い得て妙。

私は高校(県外通学)卒業と共に、久留米を脱出。北海道、東京、島根と居を変
えてきた。ふるさとから出たいという思いと、大都会への憧れと、一カ所にじっと
していたくないという我がままがミックスされた結果がこれ。
 「ふるさと」がそばにいると嫌悪感を感じ、虚しさを感じた。理由は定かではない。
ただふるさとは傲慢であり、偏狭であり、浅学だった。決して自らの過去とのかか
わりにおいてではなく、何となくだ。
九州を離れ新生活を送りだして、ほっとした。全てが新鮮で見慣れぬ世界。そこに
住みなれても、自分はよそ者だという優越感(快感)。
 その裏を返せば、常に久留米(九州)人という抽象的な意識があった。「九州人や
けん…」「久留米は今頃…たい」という台詞を吐いてはそれに酔いしれた。とんこつ
ラーメンにはうるさいし、江戸っ子並みのせっかちさ、芸能人の多さが自慢の種。
飲んで九州ネタで騒いだ後、決まって久留米が懐かしくなる。その度に、何故九州
から離れたんだろうと自問自答する日々が続いた。

そして年に数回帰省する時は、必ず列車。
久留米の街目前に筑後川が控える。それを渡る瞬間が堪らない。「ふるさと」に帰っ
てきた!という実感がふつふつと沸いてくる。それだけでもう満足。久留米での数日
間は実におまけ。
 啄木の詩 「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」

 私にとって「ふるさと」というのはまぼろしの存在。そうでないといけない。
「ふるさと」とは、はっきりしない薄ぼんやりした遠い昔の記憶。セピア色で美しく優し
い世界、ちょうど夢と現の真ん中。つまるところ「ふるさと」は実在しないもの。
最近よく人に言われるが、「もうあんたもここがふるさとじゃろ」。黙って笑っているが、
それは全く違う。ここを「ふるさと」っぽく飾り付けているだけ。

 「ふるさと」同様、国家や宗教、人生なんてものも全てまぼろし。頭だけで考えるには
面白くてありだけれど、それに振り回されたりのめり込んだりするのはちょっと待て、と
なる。この事を語り出すとややこしくなるので止めるが。

 そして…、これからどうなっていくのかまだ分からない。一応島根に根を下ろしたつも
りだが、ひょっとしたら〇年後、久留米に帰ってしまったって事になるかもしれないし。
「ふるさとに抱かれて逝く」などとカッコいい事も考えてみたいし。
 それより私の子供達はここを「ふるさと」にしてこれからどうやっていくのだろうか?
by ut9atbun61 | 2012-10-22 21:52 | 田舎
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