魯迅と高田渡?

 年末、奥ヶ野の竹林賢者(通称:先生)からお借りした本。松本健一著「竹内好論」。
ようやく読み終えた。久々に読み応えがあった。何しろ、魯迅を研究する竹内氏を
研究した本なので大変ややこしい。半分も理解できなかったかもしれない。だいい
ち竹内好を詳しく知らなかったし、魯迅も興味はあるものの、「阿Q正伝」位しか読
んだことが無い(あとは、井上ひさしの「シャンハイムーン」)。しかしこれが魯迅第
一歩となりそうだ。
 読後の感想としては色々あるが、最も心に引っかかったのがこの文章。
(走り書きのため、若干間違いがあるかもしれないが、概ねこんな事が書いてあった。)

 『魯迅は小説を「書かぬ」。「書かぬ」ことが自己表現。小説を書くことは過去の自己
を語る事。そうして自己を捨てることが出来る。とすれば魯迅が「書かぬ」ことはいま
だ言葉とならぬ叫びがある。
 「生きねばならぬ」と考えたがために作家として自己を捨てた生きる事が魯迅の自己
表現。小説を「書かぬ」ことが文学的自覚。』

 あくまで第3者から見た魯迅像ではあるが、私の中でだぶったのが高田渡氏。 
真っ先に加川良の「下宿屋」の歌詞が浮かんだ。
「…僕は信じるんです、唄わないことが一番いいんだと言える彼を。」
 高田渡氏もまた、言葉になりきれない叫びを沢山持っていて、それを独特の“間”
“しゃべり”を通して、私達の心に響いてきたのかもしれないと思う。
 そして「先覚者ではなく、一個の強靭な生活者」(魯迅評)とは、まさに高田渡そのも
のを言い得ている。
 両者は生活する事の延長上にたまたま文学があったり、音楽があったりしただけ、なのでは?

 ますます魯迅に興味がわいてきた。
[PR]
by ut9atbun61 | 2011-04-04 23:07 | Comments(0)
<< 老人力 ブログ 一周年 >>